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仕事の性質上、表に出すかどうかわからないけど作るやっぱり中止、というケースがあるのは避けられないし、中止になるなら仕事しているふりをしてサボっておくのが最適解だったりするわけで、それを前提とした目標...

仕事の性質上、表に出すかどうかわからないけど作る→やっぱり中止、というケースがあるのは避けられないし、中止になるなら仕事しているふりをしてサボっておくのが最適解だったりするわけで、それを前提とした目標設定をする必要があるんだよな。例えば、こういう新技術を使ってみたので、それに対する知見が得られました、とかそういう。

ノロワレ #にんぱく 5/30 on Twitter

#杖術 に関してひとつ気づきがあって、要は寸止めできるかということ。特に突き技での寸止め。これまでの突く動きは、杖が動き始めたら腕の力を抜いて、腕が伸び切ったら止まるというものだったように、今は思える...

#杖術 に関してひとつ気づきがあって、要は寸止めできるかということ。特に突き技での寸止め。これまでの突く動きは、杖が動き始めたら腕の力を抜いて、腕が伸び切ったら止まるというものだったように、今は思える。それだと寸止めできないから危ないし、誰かに立ってもらって、あるいは壁に向かって突いて見れば怖いのがすぐわかる。それを打開するには今注目している「空回りする動き」が有効のように思える。杖の突き技であれば腕の内旋外旋を必要以上に使うことだし、そのためには手首を反らしたままにして、その分肩を動かしたり、半身になることでサポートする。

#杖術 、長さがほぼ同じということもあって、どうも竹刀の間合いで考えちゃうのだけど、木刀の間合いで考えた方がよいのかなと。竹刀の間合いだと、杖を滑らせるというと聞こえがいいけど、要は手の中で放り投げる...

#杖術 、長さがほぼ同じということもあって、どうも竹刀の間合いで考えちゃうのだけど、木刀の間合いで考えた方がよいのかなと。竹刀の間合いだと、杖を滑らせるというと聞こえがいいけど、要は手の中で放り投げるような使い方をしないと間に合わない。独りでやるときはまだしも、打太刀をつけたら危なくてそんな動きはできない。杖を滑らせるのは間合いの問題でなく、持ち方の都合で考えたほうがいいと思う。このあたりは稽古会では無意識に気づいてたけど、うまく質問にできなかったな。いろいろ検討しよう。

脚足をパタパタと使うこと( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar709849 )の延長にあるのだが「手のひらにほうきを立てるように」という表現で一応まと...

脚足をパタパタと使うこと( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar709849 )の延長にあるのだが「手のひらにほうきを立てるように」という表現で一応まとまった感覚があるので記録しておく。この感覚は明確にあったのだけど、それを言葉でどう表現するかはだいぶ困ったし、全体的に稽古会( http://kienkai.seesaa.net/ )での言い回しで表現することになった。

例えばドアの開閉でいえば脚足をパタパタと使うこと」の記事では手や胴体は動かさないようにして、脚足の動きでドアを動かしていた。そこをなんというか、腕は腕で動かすし、胴体は胴体で動かすし、脚足も脚足で動かして、全体の動きを合成してドアを動かすというような感覚が出てきた。そういうの甲野先生( http://www.shouseikan.com/ )の何十年前の本の内容に今さら気付いたんだ、という話ではある。なので自分なりに気付いたことを書いておくけれども、ひとつひとつの動きは大きな動きであることは確かだけども、その場で体を回転させるとかの、ある種の空回りする無駄な動きであって、相手に(この場合はドアに)働きかける動きとしては小さな動きでしかなく、いくつもの動きを合成して、やっと人並みの動きになる、という感じのもの。この無駄感は、高柳さんが「体が占めている空間の中で動く」というような表現をしていたと思うが、その表現がしっくりくる。

このことと、ほうきの喩えは自分の中では同じことを表裏一体に言っているのだけど、改めて考えると意味がよくわからなくなってきた。これも高柳さんの説明にあった言葉で、手のひらに逆さにほうきを立ててバランスを取るという喩えを借りたものだけども、3日前の自分は脛を支点にして腿をほうきに見立てるとか、脚を支点にして胴体をほうきに見立てるとか、胴体を支点にして腕をほうきにみたてるとかして、バランスを取りながら力を集中させていく、というニュアンスでメモしたらしい。逆に腕を支点にして胴体(特に胸骨あたり)をほうきにみたてて歩くというのもあって、従来は歩くというと脚足の話で腕は部外者だったのだけど、やっと参加できるようになってきた。たぶん歩き出しでもこれは意味のある参加だと思う。書いてみてわかったのは「動き」と「力」で分けて表現しているから、それを表裏一体と思ったのだろう。

動きや力を合成・集中させるというと、例えば胴体が前に出て、腕も前に出るとすると、手の位置と、体の中心線を結ぶ方向に力を出すのが正しいのだ、という印象があったが、それは一つの練習方法であって、少なくともドアの開閉に関してはその位置関係は適切ではないと思った。手は手の位置、胸は胸の位置にあって、それぞれ並行に動くという感じか。体術でいえば相手の手は手で崩して、胴体は胴体同士の位置関係で崩すということができそうだが、実際にできるようになるにはまだまだ工夫が要るだろう。

体術の例について「相手には相手で動いてもらう」という標語を思いついた。相手が銅像だったら引っ張る方向にしか引っぱられないだろうから、自分の胴体、自分の手、相手の手、相手の胴体の全てが平面上になるような位置関係にならないといけないだろう。相手が人間なので、もっと楽にできることがあるはず。これは会話での応対にも通じていて、相手が(そのときの自分にとって)意味不明な行動に出たときに、今は「この人はどういう意図で行動しているんだろう。自分の行動にはどういう落ち度があって責められているんだろう」というのをとっさに考えてしまい、反応できないうちに行列に割込みされたり、あるいは「あんた失礼だな」と声を荒らげたりする。ここのあたりは反射的に「え、なんですか?」とでも返せるようになれば、どういう意図で行動しているのかとか、どんな落ち度を責めているのかというような説明責任は相手に移るし、説明しないなら理不尽な人を相手にしているのだなという覚悟を決めることができるだろう。これはまだ試す場面はないのだけども、二日連続で嫌な思いをしているので、早急になんとかしていきたいところである。

手のひらにほうきを立てるように

油そば食べてたら、店員さんがもっと混ぜろというので、その時点でかなり不愉快になったけど無視してたら、手に持ってる箸をいきなり掴んで、こうやるんだってやるもんだから、そうとう怒鳴ったんだけど、7時間以上...

油そば食べてたら、店員さんがもっと混ぜろというので、その時点でかなり不愉快になったけど無視してたら、手に持ってる箸をいきなり掴んで、こうやるんだってやるもんだから、そうとう怒鳴ったんだけど、7時間以上経つのにまだ不愉快だ。その瞬間は、絵を描いているときに、手の中の絵筆をいきなり掴まれて、絵に直せない跡がついてしまうような連想をした。

無視するときこそ警戒しとくべきだし、無視すると決めたら箸を掴まれても無視しづけるべきだったかもしれない。これは店員と戦うという方向性だ。

本当の目的はおいしくご飯を食べることだから、店員の気分を害するというのは気にせずに、最初から怒鳴っておくのが正解だったかもしれない。ただし最初の段階で口を開いていたら、それはそれで不愉快になっただろう。

この店に行ったことが不運だったし、店員の第一印象でおいしく食べることは諦めて、いろいろ覚悟を決めておくべきだったかもしれない。

手のひらに箒を立ててバランスをとる喩え。 胴体を箒に、脚を支点に見立てる。 胴体を箒に、腕を支点に見立てる。 腕を箒に、胴体を支点に見立てる。 腿を箒に、脛を支点に見立てる。 いろいろ。 そういうの...

手のひらに箒を立ててバランスをとる喩え。
胴体を箒に、脚を支点に見立てる。
胴体を箒に、腕を支点に見立てる。
腕を箒に、胴体を支点に見立てる。
腿を箒に、脛を支点に見立てる。
いろいろ。

そういうのをやりやすくする姿勢とか、
そういう動き(のバランス)そのものとか。
まだ納得のいくレベルでは扱えないけど、
少しわかってきた。

数日前から明確に感覚はあったけど、
これを言葉で表すのは難しかった。
やっと言葉にしてみると、
これ何年も前に稽古会で聞いたよなという感じ。

場数を踏んだ結果として、いつの間にかできるようになってたことはけっこうあって、一方それをどうやって後進に伝えていくかは難しい。例えば1日(理想日)で終わる粒度にタスクを切り出すのを、どうやってやってる...

場数を踏んだ結果として、いつの間にかできるようになってたことはけっこうあって、一方それをどうやって後進に伝えていくかは難しい。例えば1日(理想日)で終わる粒度にタスクを切り出すのを、どうやってやってるか自分でもわからない。ただ最近は考え方を変えたほうがいいかなとも思ってて、How的な意味でこうしろというのではなくて、What的な、いいからタスクを切り出せというように指示した方がいいのかなと。ただまた困ったことに、自分でも「いいからいい感じにやるんだよ」くらいにしか認識してなかったりするんだよな。特に設計系ね。いい感じにテーブル定義しながらコーディングするんだよ、とかとか。

「木登りとか崖から滑り降りるとか、子供は危ない遊びをどんどんやるべき。それで1%は死ぬけど、残り99%の運動能力が格段に向上する」という、まあこれはちょっと悪意のある要約というか解釈だけど、そういう意見...

「木登りとか崖から滑り降りるとか、子供は危ない遊びをどんどんやるべき。それで1%は死ぬけど、残り99%の運動能力が格段に向上する」という、まあこれはちょっと悪意のある要約というか解釈だけど、そういう意見を前に見たことがあって、一理ある気はするんだよな。なので少数派が困るだろというのはそうなんだけども、モヤモヤする。

新宿次郎 on Twitter

どういう順番で気付いたか、いまいち記憶が定かではないのだけども「太刀は動かぬものと知るべし( http://kanayamatakayuki.blog.fc2.com/blog-entry-399.html...

どういう順番で気付いたか、いまいち記憶が定かではないのだけども「太刀は動かぬものと知るべし( http://kanayamatakayuki.blog.fc2.com/blog-entry-399.html )」という言葉を自分なりに考えていたのがひとつのきっかけだったようには思う。引き戸やドアの開閉のときに、腕や胴体を積極的に使うのはやめて、脚足の動きで行うというのをテーマにしている。脚足の動きといってもいろいろバリエーションがあって、動きが徐々に伝わるとか、力強い動きではなく、もっとこう単純に関節がパタパタと開閉するような動きを目指す。このとき胸の向きが変わることで全体を制御していたみたいだが、今はそれは意識してない。

手から働きかける動きでの、脚足のパタパタとした動きをもとに考えると、それまでの歩き方は、動きが徐々に伝わる、力のこもった動きであるように感じた。もっと単純に、機械的に、パタパタとしたい。具体的な代表例を挙げると、股関節の回転方向が逆になった。それまでは歩くときには胴体を正面に向け続けるべきだと考えていたので、体が回らないように股関節で動きを中和しようとしていた。たぶんこの結果として腰痛のような痛みがあった。パタパタの動きとして考えると、歩くときには右半身になったり、左半身になったりしてもよいと思うことにした。これで腰痛のような痛みがだいぶ楽になった。

この歩き方については相当体が納得したようで、その後はほとんど意識することはないが、たまに見てみると、この動きをしている。一方お腹を下に向ける・胸の真ん中を張る( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar688673 )姿勢は、意識してこの姿勢で歩くというような楽しみはあるが、意識しなければこの姿勢にはならないので、体はまだこの姿勢をよいものだとは認めていないということなのだろう。

ドアの開閉のように、手で力を作用させる場合にも、手や腕は意識的には使わない。脚足を原動力として、手で微調整するというと筋が通っているように思えるが、今のテーマの動きでは、微調整もまた脚足で行う。ドアをどの方向で押すべきかとか、椅子を引くならどの方向にすべきかとかを、実際の動きや反力からフィードバックしていくが、その探るところも脚足で行う。

脚足の動きは例えば体を沈める動きがあったりするが、体を沈めること自体や体重の処理が目的ではない。左右非対称な動きになることも多く、例えば左脚は内旋外旋の動きで、右脚は膝を曲げて沈み込むように使うことがある。

このパタパタを別の表現でいうと、確か高柳さん( http://kienkai.seesaa.net/ )が「動きは小さくても変化が大きくなるように」というような表現をしていたと思うが、それがしっくりくる。例えば股関節の外旋内旋を大きく使うとか、とはいっても歩幅が小さければ動きとしては小さいとか、そういう感じ。パタパタの動きは、もっと追求していくと面白いことになりそうだと思うし、逆にいえばまだまだ納得する動きには達していない。

ドアは回転するので、体は直線的に動く。引き戸は平行移動なので、体は回転する。という標語を思いついた。よく考えてみると実際にはそんな特徴はないのだけど、けっこう対称的で面白いことを言っていると思う。

歩き方が変化したためだと思うが、公園の土のところを走ったら予想外に楽だった。一歩一歩について、歩幅が延びる感じがあった。不思議なことにアスファルトだと今まで通りで楽な感じがない。

姿勢といえば、お腹を下に向ける・胸の真ん中を張る姿勢を取ると、恐怖心が薄れるようだ。駅とかで、今までだったら「この人恐いなあ」とか思うような局面でも、なぜか恐くない。こういうのは甲野先生( http://www.shouseikan.com/ )の本で読んで知っていたが、恐い人にケンカを売られても実力でなんとかなる、といった裏付けが全然ないのに、しかし恐くないというのは不思議だ。

恐い恐くないといえば、自分が子供を心配するレベルで子供が自分自身の心配をするわけがないのだということ。道に飛び出したら交通事故になるかもしれないし、不安定な踏み台に登れば転ぶかもしれない。そういうのを本人が気にして注意深く行動するはずがない。それを怒っても仕方ないし、しかし放っておくわけにもいかないのが辛いところ。

甲野先生のメルマガ( http://yakan-hiko.com/BN3308 )にあった「その場を動かず、連れて行こうとしても頑に拒否している人を、手荒いことをせずに誘導して連れて行く技術」が、ダダをこねたりしたときに子供を連れていく動きとけっこう似ているので面白かった。片手で相手の手首を掴んで、もう片手で相手の脇を支えるのが同じ。どこが違うか考えてみると、記憶が曖昧なのだけど、僕のはたぶん相手の前から支える動きで、先生のは相手の後ろから支える動きだった。なので相手の後ろに回り込むようにすると、今のところほとんど抵抗されない。僕のやりかただと、子供はその場に座り込むということで抵抗をする。座り込まれると次の一手がほとんど取れないので、まあ抱っこしてしまえばいいのだけど、それくらいしか返し技がない。後ろに回る場合でも、相手が座り込んだらどうするのかは検討してみたい。実際にはこのバランスだったら座ろうとはしないようにも思えるが。

脚足をパタパタと使うこと

そういや剣道漫画にツッコミ入れる人はちょいちょい見るけど、剣術という設定だと見た記憶ない気もする。いや、1件あったかな。居合でも見た気がするか。剣道剣術だと、竹刀か刀かというところで見た目からして違う...

そういや剣道漫画にツッコミ入れる人はちょいちょい見るけど、剣術という設定だと見た記憶ない気もする。いや、1件あったかな。居合でも見た気がするか。剣道剣術だと、竹刀か刀かというところで見た目からして違うけど、居合だと基本的には同じ道具だしなあ。弓道か古流かとなると、あんまし違わなかったり、キャラの見た目的に鎧的な武装させたくないからとかありそうではある。馬に乗せとけばだいぶ違う気もする。

ちていのき on Twitter

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