脚足をパタパタと使うこと( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar709849 )の延長にあるのだが「手のひらにほうきを立てるように」という表現で一応まと...
脚足をパタパタと使うこと( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar709849 )の延長にあるのだが「手のひらにほうきを立てるように」という表現で一応まとまった感覚があるので記録しておく。この感覚は明確にあったのだけど、それを言葉でどう表現するかはだいぶ困ったし、全体的に稽古会( http://kienkai.seesaa.net/ )での言い回しで表現することになった。
例えばドアの開閉でいえば脚足をパタパタと使うこと」の記事では手や胴体は動かさないようにして、脚足の動きでドアを動かしていた。そこをなんというか、腕は腕で動かすし、胴体は胴体で動かすし、脚足も脚足で動かして、全体の動きを合成してドアを動かすというような感覚が出てきた。そういうの甲野先生( http://www.shouseikan.com/ )の何十年前の本の内容に今さら気付いたんだ、という話ではある。なので自分なりに気付いたことを書いておくけれども、ひとつひとつの動きは大きな動きであることは確かだけども、その場で体を回転させるとかの、ある種の空回りする無駄な動きであって、相手に(この場合はドアに)働きかける動きとしては小さな動きでしかなく、いくつもの動きを合成して、やっと人並みの動きになる、という感じのもの。この無駄感は、高柳さんが「体が占めている空間の中で動く」というような表現をしていたと思うが、その表現がしっくりくる。
このことと、ほうきの喩えは自分の中では同じことを表裏一体に言っているのだけど、改めて考えると意味がよくわからなくなってきた。これも高柳さんの説明にあった言葉で、手のひらに逆さにほうきを立ててバランスを取るという喩えを借りたものだけども、3日前の自分は脛を支点にして腿をほうきに見立てるとか、脚を支点にして胴体をほうきに見立てるとか、胴体を支点にして腕をほうきにみたてるとかして、バランスを取りながら力を集中させていく、というニュアンスでメモしたらしい。逆に腕を支点にして胴体(特に胸骨あたり)をほうきにみたてて歩くというのもあって、従来は歩くというと脚足の話で腕は部外者だったのだけど、やっと参加できるようになってきた。たぶん歩き出しでもこれは意味のある参加だと思う。書いてみてわかったのは「動き」と「力」で分けて表現しているから、それを表裏一体と思ったのだろう。
動きや力を合成・集中させるというと、例えば胴体が前に出て、腕も前に出るとすると、手の位置と、体の中心線を結ぶ方向に力を出すのが正しいのだ、という印象があったが、それは一つの練習方法であって、少なくともドアの開閉に関してはその位置関係は適切ではないと思った。手は手の位置、胸は胸の位置にあって、それぞれ並行に動くという感じか。体術でいえば相手の手は手で崩して、胴体は胴体同士の位置関係で崩すということができそうだが、実際にできるようになるにはまだまだ工夫が要るだろう。
体術の例について「相手には相手で動いてもらう」という標語を思いついた。相手が銅像だったら引っ張る方向にしか引っぱられないだろうから、自分の胴体、自分の手、相手の手、相手の胴体の全てが平面上になるような位置関係にならないといけないだろう。相手が人間なので、もっと楽にできることがあるはず。これは会話での応対にも通じていて、相手が(そのときの自分にとって)意味不明な行動に出たときに、今は「この人はどういう意図で行動しているんだろう。自分の行動にはどういう落ち度があって責められているんだろう」というのをとっさに考えてしまい、反応できないうちに行列に割込みされたり、あるいは「あんた失礼だな」と声を荒らげたりする。ここのあたりは反射的に「え、なんですか?」とでも返せるようになれば、どういう意図で行動しているのかとか、どんな落ち度を責めているのかというような説明責任は相手に移るし、説明しないなら理不尽な人を相手にしているのだなという覚悟を決めることができるだろう。これはまだ試す場面はないのだけども、二日連続で嫌な思いをしているので、早急になんとかしていきたいところである。
例えばドアの開閉でいえば脚足をパタパタと使うこと」の記事では手や胴体は動かさないようにして、脚足の動きでドアを動かしていた。そこをなんというか、腕は腕で動かすし、胴体は胴体で動かすし、脚足も脚足で動かして、全体の動きを合成してドアを動かすというような感覚が出てきた。そういうの甲野先生( http://www.shouseikan.com/ )の何十年前の本の内容に今さら気付いたんだ、という話ではある。なので自分なりに気付いたことを書いておくけれども、ひとつひとつの動きは大きな動きであることは確かだけども、その場で体を回転させるとかの、ある種の空回りする無駄な動きであって、相手に(この場合はドアに)働きかける動きとしては小さな動きでしかなく、いくつもの動きを合成して、やっと人並みの動きになる、という感じのもの。この無駄感は、高柳さんが「体が占めている空間の中で動く」というような表現をしていたと思うが、その表現がしっくりくる。
このことと、ほうきの喩えは自分の中では同じことを表裏一体に言っているのだけど、改めて考えると意味がよくわからなくなってきた。これも高柳さんの説明にあった言葉で、手のひらに逆さにほうきを立ててバランスを取るという喩えを借りたものだけども、3日前の自分は脛を支点にして腿をほうきに見立てるとか、脚を支点にして胴体をほうきに見立てるとか、胴体を支点にして腕をほうきにみたてるとかして、バランスを取りながら力を集中させていく、というニュアンスでメモしたらしい。逆に腕を支点にして胴体(特に胸骨あたり)をほうきにみたてて歩くというのもあって、従来は歩くというと脚足の話で腕は部外者だったのだけど、やっと参加できるようになってきた。たぶん歩き出しでもこれは意味のある参加だと思う。書いてみてわかったのは「動き」と「力」で分けて表現しているから、それを表裏一体と思ったのだろう。
動きや力を合成・集中させるというと、例えば胴体が前に出て、腕も前に出るとすると、手の位置と、体の中心線を結ぶ方向に力を出すのが正しいのだ、という印象があったが、それは一つの練習方法であって、少なくともドアの開閉に関してはその位置関係は適切ではないと思った。手は手の位置、胸は胸の位置にあって、それぞれ並行に動くという感じか。体術でいえば相手の手は手で崩して、胴体は胴体同士の位置関係で崩すということができそうだが、実際にできるようになるにはまだまだ工夫が要るだろう。
体術の例について「相手には相手で動いてもらう」という標語を思いついた。相手が銅像だったら引っ張る方向にしか引っぱられないだろうから、自分の胴体、自分の手、相手の手、相手の胴体の全てが平面上になるような位置関係にならないといけないだろう。相手が人間なので、もっと楽にできることがあるはず。これは会話での応対にも通じていて、相手が(そのときの自分にとって)意味不明な行動に出たときに、今は「この人はどういう意図で行動しているんだろう。自分の行動にはどういう落ち度があって責められているんだろう」というのをとっさに考えてしまい、反応できないうちに行列に割込みされたり、あるいは「あんた失礼だな」と声を荒らげたりする。ここのあたりは反射的に「え、なんですか?」とでも返せるようになれば、どういう意図で行動しているのかとか、どんな落ち度を責めているのかというような説明責任は相手に移るし、説明しないなら理不尽な人を相手にしているのだなという覚悟を決めることができるだろう。これはまだ試す場面はないのだけども、二日連続で嫌な思いをしているので、早急になんとかしていきたいところである。