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ベビーカーを押す時、押す反動で腰を引く感じになっていた。むしろベビーカーを引く要素を同居させることで、腰を前に引き出す。ただしそれでも負担は解消しきれず、腰が痛くなることはある。 この原因はたぶん背...

ベビーカーを押す時、押す反動で腰を引く感じになっていた。むしろベビーカーを引く要素を同居させることで、腰を前に引き出す。ただしそれでも負担は解消しきれず、腰が痛くなることはある。

この原因はたぶん背中にある。ここでは肩と腰の間あたりを背中と言っている。右肩を引くことで左腰が軽くなるのもその背中部分の調整になっている。ここは単体で姿勢の制御をするのが難しい。肩、腰、脇腹あたりがヒントになりそう。

胸鎖関節を支点にして左肩を引くと、右腰が軽くなる。右腰が動きにくくなったのは、たぶん姿勢によって負荷がかかっていて、腰痛や弾発股になるのを予防するために、身体がリミッターをかけたから。不思議とこの引く感...

胸鎖関節を支点にして左肩を引くと、右腰が軽くなる。右腰が動きにくくなったのは、たぶん姿勢によって負荷がかかっていて、腰痛や弾発股になるのを予防するために、身体がリミッターをかけたから。不思議とこの引く感じは左肩の方がやりやすい。肩かけカバンを愛用しているけど、困ったことにかかってる側の肩が前に出やすくなってしまう。

まず体術の姿勢や動きについての話題から。今まで「中心軸」や「力の流れ」のような感覚はあり、それを基準にして姿勢や動きを作っていくのがよいと考えていた。しかし先日の稽古会( http://kienkai...

まず体術の姿勢や動きについての話題から。今まで「中心軸」や「力の流れ」のような感覚はあり、それを基準にして姿勢や動きを作っていくのがよいと考えていた。しかし先日の稽古会( http://kienkai.seesaa.net/article/381126220.html )でわかったのは、それらの感覚を利用しない方がうまくいくということだった。この辺はいろいろな細かい気付きが同時並行であったのを後から整理しているので筋の通った論理展開ではないのだが、「中心軸」や「力の流れ」として感じられていたのは、おそらくは「溜め」だったのだろうと思う。相手がこう来るというのを無意識のうちに想定して、それに備えるための準備をそう感じていた。相手が想定通りの角度から来ればいいが、ずらされたらあっさりやられてしまう。なのでそういう意識は捨て去ったほうがよい。最初から不要なのか、あるいは初心のうちはギブスのように必要なものなのかはわからない。

では「中心軸」などの代わりとして基準になってくれる感覚はあるのだろうか。稽古会で気付いたのは「無防備な感じ」であった。これをどう感じるかは個人差がありそうというのを前提にしておく。仮に相手が刀で上から下に真っ直ぐに斬ってきたとすると、さくっと切れてしまいそうな、そういう感覚である。この感覚自体は以前から持っていて、そういうのもあるんだろうというバリエーションとして覚えていたのだが、どうもこれが有効っぽい。その場で気付いたのは確か額から胴体全体にかけてのと、腰というか股間あたりの無防備っぽさだったが、翌日以降には、肩を引くことで胸が無防備になったり、肩そのものや、腕や脚、手や足の指先まで、無防備にすることができる、できそうだということだった。

なぜ無防備だと感じるのだろうか。たぶん相手が上から斬ってきたとしたら、こう避けよう、そのためにはこう溜めておこう、という備えを解除してしまってるからではないだろうか。斬ってくる刀の軌跡が、逆説的に「正中面」と言えるかもしれない。また、力を抜くと考えれば「脱力」と呼ぶこともできるかもしれない。ただ実感としてはそういう一般的な用語に丸まるというよりも、「無防備で刀に斬られる」ということに尽きる。

これは今まで「よいこと」だと思っていたのが1日にして「よくないこと」に変わり、「どうでもいいこと」が動きの基準として立ち上がってくるという経験だった。

一方、この無防備姿勢から歩き出すというのが難しく、いろいろ考えていた。詰まるところ、片足に体重がかかると溜めになってしまうので避けたく、かといって膝を抜く感じだと前に進むことにはならない。そこで両脚をうまいこと使って腰・股関節を前に出し、身体のバランスを崩したところで足を前に送るようにした。これは確かに違和感がないが、はたしてこんなことをしてよいのだろうかという疑問が出てきた。これも順番が前後するが、動きは2つの手順を踏むとかではなく1挙動でなければならない、という気持ちがあるからである。なぜそう思っているかというと実はこれといった根拠はなくて、10年くらい前にそういうことを言ってた人から聞いたとか、あるいは黒田鉄山先生( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%89%84%E5%B1%B1 )の理論の聞き齧りから来ているものだと思う。とにかく、身体の感覚としては違和感がないが、頭としてはなんか気に入らないという思いがあった。

このことを考えるのに別の例として杖術の影踏み( 杖術体術稽古 機縁会 杖術『影踏(かげふみ)』 )が思い浮かんだ。これも手順としては右手を前にして突き、正面を向いて、左手を前にして突く、と言えば3つの動作なのだが、それはあくまで説明や理解のためという面があって、自然な動きとしては止まらずに1つの動作として捉えられている。であれば、腰を前に出し、足を出すという2つの動作も、腰が前に移動し続けるという点においては1つの動作なのだろうと考えた。そう考えると矛盾に苦しむことがなくなってきた。

この場合は脚の仕事は、腰をなるべく上下させず、水平方向に動かすよう高さを調整しながら、腰を支え、あるいは押し続けるということになってくる。

ここで例に出した影踏みだが、これについても「これはよくないことではなかろうか」と考え込む要素がある。前を向くときには杖は立てる、これは影踏みを特徴づける要素である、という意識があったのだが、よりスムーズに動くことを考えていくと、手は左右に広がり、杖もより水平に近づくことになる。そうすると杖を一旦立てる手間が省けるし、手を滑らせて長さを調整するのも1手順でできる。これは特に型稽古なので、動きにくいからこそ意味がある要素というのもあるはずで、それを崩してしまっていいのかということでもある。ただ、この杖術のルーツには動きにくいからこそ意味がある型稽古という面は薄いはずだというのもあったし、脇を締めつつ上腕の外旋で手を左右に広げるという動きは、この杖術の特徴的な動きとしてあるということもある。あるいは影踏みの説明として、杖で右上を突き、角度を変えずに左下を突く、それに半身の差し替えが加わるのだという話もあり、いろいろ総合すると、手を左右に広げるのもそれはそれでアリなんじゃないかと思えてきた。

そう思うと、素振り( 杖術体術稽古 機縁会 素振り )と影踏みには、確かに似た面があるのだが、素振りは手を左右に広げないことが求められる。その流れでなんとなく影踏みをみると、同じように正面を向く手順があるため、これも手を左右に広げないことが重要に思えてきてしまうが、たぶんそうでもない。

これはよくないことではなかろうかと考えたこと

膝を痛くしたくないこと( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar403578 ) についてさらにいろいろ考えてみた。#杖術 にあるような半身の差し替えを行...

膝を痛くしたくないこと( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar403578 ) についてさらにいろいろ考えてみた。#杖術 にあるような半身の差し替えを行ってから、仰向けになって股関節から脚を上げて回してみると、ガニ股的な外に開く動きはされていても、内股的な、右脚であれば左側に持ってくるような動きはされておらず「使ってない筋肉をストレッチしている」みたいな感覚があった。ここはやはり外回しの動きも内回しの動きも同じくらいやっておきたいところ。はてさて、半身の差し替えで内回しの動きってあるかなと思うと、半身の状態から正面を向いて足を揃えようという動きは、左右の脚がともに内回りになっている。内回しの動きについては 股関節の使い方から発展( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar396057 ) に書いたように、意識的に操作できる部分が出てきているので、その動きを合わせてみると、いくらか動きがスムーズになる。そして膝の痛みも軽減したようであった。

先日まではこの辺の操作が無意識にできていたのが、なまじ外回し内回しを意識的にできるようになったので、無意識の操作から抜けてしまったのではないかと思う。

この股関節の外回し内回しは、半身になって脚を開いたときにもテーマになっていて、脚を開くなら外回しに開くのも合わせようとすれば思いっきり足の外側に体重をかけることになるし、内回しに持ってくれば親指側に体重をかけることができる。ただし外側に体重をかけると股関節に負担がありそうな気がするし、内側すぎると膝に負担がかかりそうな気がする。なにかいい基準はないかなあと考えてみると、足裏の重みの感覚が使えそうだった。これはどちらかというと歩いたり、普通に直立したりするときの感覚で、拇指球を代表格として、小指のつけ根あたり、親指と小指のそれぞれ先端あたりの合わせて4点でほぼ平均的に(感覚の上での話)体重を支え、踵が一歩下がったところからサポートするように体重を支える、というもの。脚を開いたときにもこのバランスを基準にすることができそうだった。

三次元的な動きとしては、爪先を開いたり閉じたりする方向の回転(外旋内旋)と、脚を左右に開いたり閉じたりする方向の回転(外転内転)があって、確かに意識的に使い分けることもできるが、実用上はひとまとめにして外回し内回しと大雑把に意識しているように思う。もうちょっと詳しく見ると、内旋と内転のバランスはどうあるべきか、みたいなのを調整したあと、いい感じのバランスを記憶して内回しとして使っているような気がする。

股関節の外回し内回しの話

#杖術 、ここでは僕の稽古している杖術ということなのだけど、膝を曲げて腰を落とし気味にしたりとか、強めの半身から逆側の半身への差し替えをしたりするからか、膝が痛くなることがよくある。ただ他の人からはそ...

#杖術 、ここでは僕の稽古している杖術ということなのだけど、膝を曲げて腰を落とし気味にしたりとか、強めの半身から逆側の半身への差し替えをしたりするからか、膝が痛くなることがよくある。ただ他の人からはそういうことを聞いたことがないので僕固有の問題なのかもしれないが。

いろいろと動きに気をつけるようにしたところ、最近は割と膝が痛くならないようになっていたのだが、たぶん 股関節の使い方から発展( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar396057 ) からの股関節の使い方が原因で、膝に負担がかかるようになってしまったためか、痛くなってしまった。ちなみに股関節の使い方としては、外転内転の左右の動きを使ってバランスを取って歩くことだったり、歩き出すときもこの動きで軸足側に体重を移すなどのことで、とても使い勝手がよい。また、気持ちの持ち方的なものとは違って実感のある技術だと思うし、力を抜いておいてもこの動きは出すことができるようになってきた。そうなると肩にせよ股関節にせよ「とにかく力を抜けばいいのだ」といっても嘘ではないなあと思うようになった。ただし嘘ではないにせよ、人に話を伝える上での情報量は落ちてしまう。

さてそれはそれとして、やはり膝は痛くなる。今までこのことを考えてみるといくつか思うところはあって、1つは膝は肘関節や股関節と違って回転をしない、屈伸専門の動きのはずなのだが、半身の差し替えのような動きをすると、股関節の状態と指先の方向が一致せず、膝に捻れの力がかかってしまうのではないか、ということ。あとは膝を曲げた状態で体重を支えるのがまずいのか、膝を爪先より前に出さず股関節側を大きく曲げた方がいいのか、という視点もある。動きの面からみると、膝をクッションのように使って動きを止めると、クッションの動きはなかば無意識なのでより負荷がかかっているのではかとも思う。今日は、膝だけではなくふくらはぎも張ってる感じだったので、ふくらはぎの張りが膝関節に出ているのではないかということに気付いた。

膝が痛くなるのが具体的にどの姿勢どのタイミングなのかはわからないのだが、ふくらはぎがいつ緊張しているのかは触ってみればわかる。いろいろ試してみると、どうやら杖術の動きで両足を揃えて正面を向くところ、ここで止まろうとするとそうなるようだった。動きの流れを考えると、正面を向いたところで止まるのではなく、後ろに倒れこむくらいのバランスにしておくのがよいのではないかと思っている。

膝を痛くしたくないこと

わかるということ( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar394566 )で例に出していた股関節の使い方についてメモしておきます。日曜の時点で考えていたの...

わかるということ( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar394566 )で例に出していた股関節の使い方についてメモしておきます。日曜の時点で考えていたのは、確か股関節を内転(でいいのかな)方向に内股になるように使うということだったと思います。

その前から股関節の内旋外旋( http://ch.nicovideo.jp/fuktommy/blomaga/ar381511 )はテーマだったので、それと融合していくと、火曜の時点では内旋外旋の軸の感覚の話になっています。それ以前の内旋外旋の軸は改めて意識してみると、腿の中心よりも前側にあったようでした(感覚的な軸の話)。それを中心に位置させて、かつその軸をぶらさないようにする、というようなことがメモされています。

それが水曜日になると、軸は腿の中心を通り越して、腿の後側の皮膚のあたりまで来ています。これはある意味下方向への流れを持っていて、対応して爪先(あるいは拇指球あたり)が引き上げられる感覚が出てきてます。これでバランスが取れると、手を大きく振ってバランスを取る必要がなくなるようでした。爪先を上げるようにすると歩くときに足を水平に近い角度で引き上げることができているようで、それは地面を蹴らない動きとして外見上わかるものですが、しかし外見上の見え方よりも蹴らないという感覚の方が大事だと思います。

そして今日木曜日ですが、腿の裏側にある軸が背中全体に広がって、壁のような感覚になっています。背中にぴったり壁がくっついていて、これよりも下がることを許さない、という感じです。といっても下がるときは普通に下がりますし、半身のときはどうするのかというとなんか曖昧なのですが、なんとなくしっくりは来てます。これで歩くときは拇指球が中心となってて、足の小指側だったり踵だったりを軽く接地してバランスを取る感じになっています。拇指球に体重をかけるのはよくないと思ってたのですが、最終的にはそうなるかもしれませんが、今の状態だと拇指球中心がしっくり来ます。

本題とはずれますが、拇指球に体重をかけるべきではないという体系的な話を聞いていると、今の動きにとても抵抗(というか罪悪感に近い)があるんですよね。この辺はおそらく僕の性質なので、あまり体系的な話を聞かないようにしようと改めて思いました。

股関節の使い方から発展

10年ちょい前に(旧)恵比寿稽古会の帰りの電車の中で、「わかりたくないと思うときが来るから」というようなことを言われたことがある。こう書いてみるとなんか変な言葉なので、実際にはもうちょっと違う表現だっ...

10年ちょい前に(旧)恵比寿稽古会の帰りの電車の中で、「わかりたくないと思うときが来るから」というようなことを言われたことがある。こう書いてみるとなんか変な言葉なので、実際にはもうちょっと違う表現だったと思うのだが、なんか短い言葉ではあったはず。いつの頃からか「先生や周りの人の言うことは難しくて、初心者の自分にはわからない。と言えなくなる時期が来るからね」という解釈をしていた。そして確かに最近、これは苦しいという実感が出てきた。

どういうことかというと「ある程度」わかる、ということをどう捉えるか、どう表現するか、ということに自分には見えている。仮に「説明の十分の一わかる」というと矛盾で、まず100%理解した上で、自分の理解が10%だと言ってるのだから、どっちなんだということになる。そういう意味では「ある程度」という表現も具体的な数値をぼかしているだけで本質は変わらない。もうちょっと踏み込むと、ひとつは「本来の意味はわからないが、自分なりにこう解釈している」というのはわかりやすい表現ではある。

ただし厳密にいうとこれもちょっと違ってて、例えば「こういうことがあって、股関節をこう使うと有効だということがわかった」という話を聞いたとしても、それは感覚の話であって、レントゲン写真なりで互いの骨格の動きを確認すれば別だが、一般的にはそうですかなるほど、という域を出ない。ただ体術の動きとして考えれば、理解しているなら相手の技を防いだり、同じように技をかけたりできるはずだ、という考え方もできる。その意味でいうと確かに理解はしてない。という前提があったとして、それでも「なるほどそういう股関節の使い方もあるのか」と思っていろいろ試していると、性質としては別物っぽいが言葉にしてみると似たような表現になる股関節の使い方、のようなものに辿りついたりする。

これを自分なりの解釈と呼んでもよさそうなものではあるが、自分的にはしっくりこない。ある程度わかっているというのもちょっと違う気はする。説明をヒントに自分なりに発見(再発見)したもの、という言い方が一番近い気はするが。

わかるということ

方条さんの記事( http://hojos.blog135.fc2.com/blog-entry-322.html ) より ・「術」の世界というのは、甲野先生もよく言われるように「自転車に乗れるよ...

方条さんの記事( http://hojos.blog135.fc2.com/blog-entry-322.html ) より

・「術」の世界というのは、甲野先生もよく言われるように「自転車に乗れるようになるかどうか」に似たところがあり、「最初のきっかけ」を得られるかどうかでその後の稽古人生がおおきく変わります。
・残念なことに、「良くわからない」と思ったまま稽古をやめてしまう方もとても多いのです。「最初のきっかけ」を、誰にでも気軽に体験してもらう方法がなかなか見つからずにいたからです。

という話がありまして、十年ちょい前に(旧)恵比寿稽古会に通ってたときの自分は、1年か2年か忘れましたけど、結局 "「良くわからない」と思ったまま稽古をやめてしま" ったわけです。いろいろあって2011年から稽古を再開して2年半くらい経つわけですが「最初のきっかけ」は得たなあという感じはします。

ただし何を「最初」とするかは難しいところで、手順を覚えることで杖術の動きがスムーズにできると理解したのは割と初期だと思いますし、姿勢や歩き方がもっと細かく制御できていくはずだと思えたのはもうちょっと後だったかなとか、体術で相手を崩すことができるようになっていくはずだと思えたのはごく最近なのですが、そういうきっかけはあったわけです。

当時と最近と何が違うかなあといろいろ考えると、愚痴っぽくなってしまうので、なんとも文章がまとまらないのですが、やっぱり(旧)恵比寿稽古会は特殊な環境で、激しく人を選ぶんだろうなあと思うわけです。武術稽古法研究 No.151:自主稽古会としての恵比寿( http://www15.plala.or.jp/taka1643/kenkyu/kenkyu_151htm.htm ) はその雰囲気を伝えてる気もしますが、伝わるかどうか。

当時のことを思い出すと、何を稽古していいかわからないし、やってみても技ができないし、周りは不親切に思えるし、の駄目スパイラルに入っていく実感があります。幸いなことに、今でも稽古していると駄目スパイラルに入りそうなのはすぐわかるので、軌道修正を試みたりもしてます。ちょっとした動きとか口調とかで雰囲気が暗くなっていくものです。

書こうとしてもなかなか書けないものですね。やっぱり当時のことは暗い記憶ではあるのです。

きっかけの話

コンビニなり郵便局なりで受け取れない宅配は絶滅しろ。何時間も連続して家で待ってられるわけがないだろうが。結局今日受け取れなかったから次は1週間後だし、僕はすぐ本が読みたいからAmazonで注文してるのに...

コンビニなり郵便局なりで受け取れない宅配は絶滅しろ。何時間も連続して家で待ってられるわけがないだろうが。結局今日受け取れなかったから次は1週間後だし、僕はすぐ本が読みたいからAmazonで注文してるのに。

送料こちら持ちでクロネコヤマトか郵便で送り直すことを提案してるけど、これが通ったところでいつ着くかわからないし、送料入れたら中古本なのに新品より高くつくかもしれない。もうエコ配使ってる業者は選ばない。

備考欄に不在のときはその辺に置いとけと書いたんだからそうしろよ。5千円程度の技術書だし、盗まれたなら盗まれたで仕方ない。

あとエコ配の事務所で受け取るのをエコ配側に問い合わせてるけど、これもどうなることやら。

とかいってたらエコ配の配達員の方が持ってきてくれました。不在票入ってたらから明日以降の再配達しかないと思ってたんだけど。ありがとうございます。

今後の日本のweb業界まわりについて予想したことまとめる - スマートフォンの普及はもうそろそろ止まる - 人間の生き死にの入れ替わりスピード以上にはならない - ガラケーが復活する - 日本の端末...

今後の日本のweb業界まわりについて予想したことまとめる

- スマートフォンの普及はもうそろそろ止まる
  - 人間の生き死にの入れ替わりスピード以上にはならない
- ガラケーが復活する
  - 日本の端末メーカーは全てスマフォから撤退する
    - 中にはガラケーに戻るメーカーもある
    - 今無理してスマフォ使ってる奴がガラケーに戻る
    - 今スマフォ:ガラケーが4:6くらいなのが3:7くらいに戻るのでは?
  - キャリアもスマフォを売らなくなる
  - ガラケーはキャリアから スマフォは輸入/メーカー直売
- キャリアと7割のガラケーユーザはガラケーの閉じた世界に戻る
  - SIMロック完全に無くなる 3割のスマフォユーザは回線を使うだけ
- エンジニアはもちろんスマフォ
  - 国内のパイが小さいので世界をメインターゲットにサービスするようになる
  - ガラケー向けサービスを作るところはクソの掃き溜め
  - 利用端末によって使うサービスが分断される
  - 結果 日本人が階層化される

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