同じソース(文章でも動画ファイルでも)が自宅のPCでも出先でもモバイル機器でも使えるというのが僕にとっての理想なんだなあと思った。モバイル機器用のブラウザ類には頑張ってほしいけど、モバイル独自のゲームとかにはあまり興味がないのだけど、それが今言った理由によるものなんだなあ。
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煩悩ブックマーク
香川ではいくつかのうどん屋さんを周りましたが、一番おいしかったのが香川大学(工学部)の裏の、いかにも本格的なうどん屋さんで、2番目が空港の中のうどん屋さん。市内のうどん屋さんはいまいちだったけど、ちゃんとガイドブックを持っていけばおいしいところに行けたかな。
shinno: I'm at 高松空港 (Takamatsu Airport) (TAK/RJOT) (香南町岡1312-7, 高松市) http://4sq.com/hozWXI -
Twitter / shinno
ホームページでもブログでもTwitterでも、作ったからといって自動的に全世界に情報が伝わっていくわけではない。ところが何か失言でもすると、「全世界に公開されている場でこんなことを書くとは何事だ」と叩かれる。場合によっては逮捕されたり、内定を取り消されたりする。このバランスの悪さはどうにかならないものか。
ekken: フォロワー数を増やすのはそんなに難しい事だとは思わないけど、フォロー数を増やすほど、「良い情報」を得るのが困難になりそう / twitterはまだよく理解されていないんだなーと - おやじまんのだめだこりゃ日記 http://htn.to/3FrHnW -
Twitter / ekken
基本技術として「正しい立ち方」があるのだ、という技術体系は注意深く解釈しないといけない。正しい立ち方があるとして、それが「正しい」としたら、歩く際も「正しい立ち方」を保たなければならないが、歩くのは全身でバランスを取るのだから、「正しい立ち方」とは違ってくるはずなのである。ところが「正しい立ち方」「正しい歩き方」「正しい何々」と連続して教えられると、そのあたりの自覚が曖昧になってしまう。
僕は剣道でいうところの「素振り」と「打ち込み」(だったかな。用語が正しいのか謎)が技術的に繋がってないようだという印象を15年とか20年とか持っていたのだけど、逆にいえばそこ止まりだった。それが今年の1月に、台所で洗い物をしているときに、身体が楽になる変な立ち方をしているのに気付き、それは一般に言われている「正しい立ち方」ではないことから、なるほど「正しい立ち方」はあらゆる条件のもとで正しいというわけではないのだと考え始めるようになってきた。
この発想はかなり一般化されるはずで、「正しい立ち方」を保ったまま「正しい歩き方」をして、「正しい歩き方」をしながら「正しい何々」をする、という風に考え方を縛ることが、多くの可能性を潰している。そんなわけで今年の1月から3月にかけて、10年以上持っていた課題が解決してきた。
そういえば僕も12歳の写真だったかな。住基カードを作るのに「写真付き証明書を持ってくること。…無線従事者免許証…」とあったので持っていったら、理由もなしにリジェクトされてたいがい腹が立ちました。杉並区役所は住民向けの文書に書いてあることと窓口の言うことがよく異なってる。書類を書く机に貼ってある紙と、窓口で違うことを言ってて、指摘しても直そうとしない。
kinoppix: うちの社員のアマチュア無線技師4級の免許証がガチの10才児w -
Twitter / kinoppix
この感想は僕とだいたい同じで、例えば装置が暴走しても主電源のコンセントを抜いてしまえば止まる、くらいのものであれば安心できる。ただコンピューターであっても、主電源を抜けば全て解決というわけでもなくて、例えばウェブ上に情報が流出してしまったらどうしようもない。コンセントを抜けば安全、というのは、そこまで存在しないのではないかとも思う。
Life is beautiful: エンジニアから見た原発 -
はてなブックマーク - 新着エントリー
原発は危険だから廃止しようと。じゃあ火力発電ならいいかというと、それはそれで危険だし環境にも悪いから廃止しようと。それで、電気なんかほとんどなくてもいい、江戸時代でいいと割り切れる人はいいけれども、電気がないとコンピューターが使えなくなって、僕は仕事も趣味もなくしてしまう。それは困る。でもやっぱり原発は恐い。
このあたりの話はもう10年くらい前から問題視してて、外部からアクセスできる文章を書くということが、どういうことになるのかという問題。本を書いて出版するのと、自分用の日記に物を書くのは公開の度合が全然違ってて、自分の日記ならどんなネタを書いてもよいわけだ。じゃあその日記が家の前に置いてあって誰でも見れる状態になっていたらどうなのか。公開っちゃあ公開だけど、ほとんどの人は読まないよね。ネットで参照できる文章もこのレベルなんじゃないか、というのが1つの説明の仕方。
あるいは街頭で拡声器を持って演説している人と、立ち話をしている人で、どっちも耳に入ることはあるだろうけど、演説の人にはより多くの人に話を聞かせたいという意思があるのに対して、立ち話の方はたまたま耳に入る人はいるだろうけど、わざわざ聞かせたいわけじゃないよな、という。
Twitterなりに何か文章を書いたとして、それは想定した読者がいるとして、それ以外の人が見る分には勝手だろうけど、そんなところにまで責任は持てないというか、読んでくれと頼んだわけじゃなし、というのはある。
>こういうのを10年前からいろいろ言っていて、ネット社会というのはこの「パブリック」と「プライベート」の間の領域に対して、何か新しい見方を作り出せるのじゃないか、また、そうしなければうまくいかないんじゃないかと思ってたんだけど、結局のところは独り言であってもパブリック扱いされるという世の中になってしまい、その考え方がほとんど固定してしまったのではないか。もう変えようがないのではないか、という気がする。非常に残念で仕方がない。
Togetter - 「DHMO騒動についての批判について少し噛み付いてみた」 -
花見川ブックマーク
本文とはあんまり関係ないんだけど、脳と痛点の関係というのを思いついたので書いておく。
僕が困ったことがあると上司にアラートを上げて、上司がいい感じに判断してくれる、みたいな関係をイメージしてほしい。僕が痛点で、上司が脳。どういう比喩がいいのかわかんなかったけど、最初に思いついたのが「脳とセンサー」だったのでそれで行っちゃう。
脳の機能を強化していこうと思えば、痛点には余計なことを考えてほしくないのではないか。とにかく困ったらすみやかにアラートを上げるべし。対応等を考えるのは脳の役目だ、と。
一方、現場で困っているとして、確実に上司を動かそう、そのためにはどうやって説得するか、というのを考えるのは脳の役割であって、いい感じのアラートを上げるための工夫をするとしたら、それは痛点に見えるけど実は脳なのだろうと。
以前から代議士を動かすには有権者が工夫をしなければいけないというのを僕は問題だと思ってて、問題じゃないと思ってる人にとっては全然不思議ではないっぽいのだけど、とにかく僕は問題だと思っており、なにか見方が違うんじゃないかと思ってたわけ。僕の感覚だと、有権者は痛点であって、脳にはアラートを検知すべき責任がある。痛点に求められているのはすみやかに、的確にアラートを上げることであって、アラートの上げ方を求められているとしたら、脳の怠慢であろうと。
相手から見える風景を想像する -
レジデント初期研修用資料