このあたりの話はもう10年くらい前から問題視してて、外部からアクセスできる文章を書くということが、どういうことになるのかという問題。本を書いて出版するのと、自分用の日記に物を書くのは公開の度合が...
このあたりの話はもう10年くらい前から問題視してて、外部からアクセスできる文章を書くということが、どういうことになるのかという問題。本を書いて出版するのと、自分用の日記に物を書くのは公開の度合が全然違ってて、自分の日記ならどんなネタを書いてもよいわけだ。じゃあその日記が家の前に置いてあって誰でも見れる状態になっていたらどうなのか。公開っちゃあ公開だけど、ほとんどの人は読まないよね。ネットで参照できる文章もこのレベルなんじゃないか、というのが1つの説明の仕方。あるいは街頭で拡声器を持って演説している人と、立ち話をしている人で、どっちも耳に入ることはあるだろうけど、演説の人にはより多くの人に話を聞かせたいという意思があるのに対して、立ち話の方はたまたま耳に入る人はいるだろうけど、わざわざ聞かせたいわけじゃないよな、という。
Twitterなりに何か文章を書いたとして、それは想定した読者がいるとして、それ以外の人が見る分には勝手だろうけど、そんなところにまで責任は持てないというか、読んでくれと頼んだわけじゃなし、というのはある。
>こういうのを10年前からいろいろ言っていて、ネット社会というのはこの「パブリック」と「プライベート」の間の領域に対して、何か新しい見方を作り出せるのじゃないか、また、そうしなければうまくいかないんじゃないかと思ってたんだけど、結局のところは独り言であってもパブリック扱いされるという世の中になってしまい、その考え方がほとんど固定してしまったのではないか。もう変えようがないのではないか、という気がする。非常に残念で仕方がない。
Togetter - 「DHMO騒動についての批判について少し噛み付いてみた」 - 花見川ブックマーク