現場の開拓者の考えとは別に、スポンサーとしてはあとから来る人をどんどん入れていって、それで儲けようという計画で開拓者を支援してたんだろうし、それは今でも西部の時代でも同じなんだろうなあ。開拓者が開拓者の流儀で生きていくには、開拓者自身がスポンサーになる必要があるのだろうけど、そういう領域というのは存在しうるのかなあとは思う。資本が入ってきたらそれで終わりじゃないかという。
第2次インターネット開拓時代の終わりとこれから - novtan別館
僕は「何をしている」と「なぜ」、あるいはHowとWhyとWhatの区別がよくわからんのだよなー。個々の場合に、ここにはどういうコメントを書こうというのは一応の基準があってやってはいるけど、それがHowとWhyとWhatのどれにあたるかとか、よくわからん。そういえば分析手法についての話を聞いたときに、Whyで分析しましょうというサンプルが、自分にはWhatにしか思えなかったし、そのあたりは講師の人に聞いたけど時間切れでわからなかったんだよね。とりあえずHowとWhyとWhatは同じもので注目してる側面が違うというような解釈にしてはいるけど、どこまで共感されるのかはわからない。
プログラムのコメントに『何をしているコードか』を書いても無意味なので、代わりに『なぜそのようなコードになったのか』を書くようにしよう - じゃがめブログ
例えばあれだよな。虚構新聞がデマを書くな、デマ・嘘禁止という方針を取ったとき、こういった記事がデマや嘘の範囲に収まるかどうかという問題があるよな。僕の考えでは虚構新聞と同じようにこの記事もデマや嘘の類いだし、こういったジョークを書くことを禁止してしまったら生きづらい世の中になるのは確実なので、禁止することには一貫して反対している。
怒ったブスが坂口綾優さんに猛突進すると、頭がぶつかって二人の身体が入れ替わ... - 近況 - eigokun - はてなハイク
基礎の研究 - 応用の研究 - 実用
という3者のモデルでなんとなく考えていて、
基礎の研究 = 言語学
応用の研究 = 自然言語処理
という役割にはなってないんだろうなあと思ってみたりする。
一方、別の分野ではあるけれども、実用の現場での気付き・発見が
定量的な評価が難しいために基礎/応用の研究にフィードバックされなくて、
現場の人がくさってるという話があったりすることから考えて、
この場合も基礎の研究と応用の研究が噛み合ってないだけなのかなあという気もする。
文理な話。