掃き掃除であれば竹箒と室内用の箒では使い方が違ったり、広く掃くときと溝を掃くときでもやりかたが違ったりする、というのを仮定してみる。実際どれくらい違うのかはいまいち実感がないんだけど、無駄を省い...
掃き掃除であれば竹箒と室内用の箒では使い方が違ったり、広く掃くときと溝を掃くときでもやりかたが違ったりする、というのを仮定してみる。実際どれくらい違うのかはいまいち実感がないんだけど、無駄を省いていくと、どこかでそういう細かいところが必要になる気はする。んで、娘さんに技を教えるとすると「なるほど、言われたようにやってみたら無駄がないなあ」という感じの驚きがあるか、「よくわからないけど父ちゃん(母ちゃん)すごい。ああなりたいから真似してみよう」という感じの驚きがあるか、どっちかだと成長があるんじゃないかな。このタイプだと、竹箒はわかった、じゃあ室内用の箒だとどうなるんだろう、という感じに成長していく。
一方「これが正しい竹箒の使い方だ」みたいに習ったとすると、広く掃くときも溝を掃くときも、室内用の箒でも同じ使い方をしてしまうんじゃないか。それだと無駄があるのだけど、これが正しいのだと思ってるから工夫ができないか、ごく狭い範囲の工夫で終わってしまうのではないか。
ところで、子供に教えるときには、いろんなことが単純化されていて、現実とは異なってるはず。その単純化されたものを正しいものとして扱っているとどうしても限界がある。成長過程でもっと現実に近いものに交換していく必要がある。学校の勉強はけっこううまくできていると思うんだけど、そこから漏れるものは難しい。経済の仕組みがどうなってるんかなんて、僕は小学校のときに読んだ学習漫画レベルだったりする。体育とかは自分で気付く人もいるかもしんないけど、部活で専門的にスポーツやってる人とかじゃないと、小学校的な身体観で固まってしまうような気もする。そういうことを考えると、みんなで体操をするとかじゃなくて、自由に遊ばせるのが大事という説も納得がいく。
賢さのオルタナティブ - β2