思ったことを垂れ流すツールと法律と道徳
「思ったことを垂れ流すツール」 の続きなんだけど、 思うことは「内心の自由」の管轄で、 垂れ流すと「表現の自由」の管轄になるんだよなあ。 法律のいろんな枠組みを越える話でもある。
例えば殺意を持っただけでは罰せられないんだけど、 それを垂れ流すと犯行予告として罰せられます。 これをどう解釈すればいいかというと、
- 殺意を垂れ流したからといって罰せられるのが間違っている。
- 殺意は垂れ流してはいけない。 「思ったことを垂れ流す」ことは不可能で、 必ずフィルタを通さなければならない。
- 殺意を持ってはならない。 殺意を持つだけでは罰せられないのは行政や司法のシステムの限界であって、 宗教や道徳として禁じればいいじゃないか。
のどれかであって、3番なのかなあ、と最近は思ってたりします。 殺意を持つことは禁止すべきなのだけど、 人間である警察や司法には殺意を持っているかなどわからないし、 そんなことまで取り締まっていたら弊害の方が大きいから、取り締らないだけで、 「人には殺意を持つ権利がある」というわけじゃないのではないか、と。 だから殺意を罰するのは神様の管轄で、 それを垂れ流すと人間界の管轄になり、 単に管轄が違うだけで、どちらも禁止されているし罰されるんですよ、 というまとめかた。