定義としてのオープンソースと説明としてのオープンソースは違う
まとめるとOSSは、通常のソフトウェアよりも欠陥が少なく、世界最大のソフトウェア会社よりも開発力があり、技術革新を促進している。
(オープンソースの生産性より)
って、そりゃないでしょ。
120万人の登録ユーザーがいて、10万のプロジェクトがある
といったって、
野村総研が注目しているOSSはたった24件ですよ。
分野の問題があるから単純に割り算はできませんが。
10万のプロジェクトには「活発さ: 0%」のものがけっこうあるんじゃないですかね。
「オープンソースは生産性が高い」んじゃなくて
「オープンソースには生産性の高いものがある」ということなんじゃないかと。
で、久し振りに元記事を読んでみたわけです。
オープンソース開発モデルの生産性の高さ
(「Googleはオープンソース組織を内部に持つ営利企業」---梅田望夫氏が語るシリコンバレー精神とオープンソースより)
とあります。
よく読むと「オープンソースの生産性の高さ」ではないんですね。
「オープンソース開発モデル」なるものの話です。
オープンソースというのは オープンソースの定義 によって定義されるものです。 オープンソースの説明として 伽藍とバザール がどうのこうのとか、 インターネットで世界中の開発者が協力して云々とかありますけど、 それは定義ではないんですね。 一人で作っていても例えばBSDライセンスのもとで公開すればOSSです。
でもここで問題にしているのは オープンソースではなくて「オープンソース開発モデル」です。 伽藍とバザールがどうだとか、 世界中の開発者が協力して云々とかいう方の話のようです。 なんか話がややこしいじゃないですか。
「サルでも生産性が上がるオープンソース」をみると 元記事の「オープンソース開発モデル」という意味で「オープンソース」という言葉を使っているようです。 最初僕はオープンソースの定義に基くオープンソースだと解釈していて、 「オープンソースだからといって生産性が上がるとは思えないんだが」とか 「オープンソースでもオリジナリティのあるものはあるんじゃないの」とか 思ってたんですけど、そういう話じゃないんですね。 そりゃ世界中の開発者が協力すれば生産性は上がるでしょうよ、とか 独創的なソフトは成功するかどうかわからないから開発者が集まらず、 オープンソース開発モデルとは呼べないでしょうよ、とか そういう話なんです。