オタク式パロディ作法
はじめに
いわゆる「のまネコ」問題についてはいろいろな見方がある。 僕の興味は「一部2ちゃんねらが怒ってるのは事実であるが、怒っている理由はなんだろう」というものだ。 「2ちゃんねらが怒っていることに正当な理由はあるのか」とか「2ちゃんねらとavexとどちらが正しいのか」のようなことにはあまり興味がない。
「2ちゃんねるでのパクリやパロディにオリジナルへのリスペクトはあるか?」という記事では「2ちゃんねらが怒っていることに正当な理由はあるのか」的な立場から「正当な理由というには疑問がある」という結論を導いている。「~あるか?」というのは反語である。
これに対して僕はこう考えた。 「2ちゃんねらは自らのパロディにはリスペクトがあり、avexのそれにはないと考えているのではないか」。だから怒っているのだ。 ではリスペクトの有無はどこで線引きされるのだろうか。
オタクの知識自慢
オタクが知識を自慢するというのはよく知られているらしい。 原典は忘れてしまったのだが、オタク同士の会話を横でずっと記録した人がいた。 その結果、オタクの会話は本当は会話ではなく、交互に知識自慢をしていただけということがわかったそうな。 オタクだからまともな会話ができないのか、会話ができないからオタクになったのか、というような文章だったと思う。 まあ原典も忘れてしまったし、どの程度信頼できる情報なのかわからないのだが。
それは余談としても、オタクは知識自慢をし、知識の多い方が偉く、非オタクに対しても自分の知識に優越感を持つ(としておく)。
オタク式パロディ
では知識自慢をするオタクはどのようなパロディを行なうのか。 これも原典を忘れてしまった(今回は本当に駄目駄目ですね)のだが、 「パロディだとわかる形でパロディを行う」という話がある。 より具体的にいうと、 ある程度注意深い人が見れば、何らかのパロディだということはわかる。 しかし本当の意味がわかるのは原典を知るものだけ、というものだ。
ちょっと感覚的な話なのだが、一般的なパロディというのは 原典がわからなくても面白く、原典がわかればもっと面白いものだろう。 しかしオタクが求めるのは、原典がわからないと気になり、 原典がわかれば面白いものである。
2chの書き込みにも似たものがあって、 例えば前後の文脈に関係なく「角度とか」と書いてある。その意味がわかる人は面白い。わからない人でも「何かの符丁だ。意味があるはずだ」と思うだろう。その時「角度とか」の意味を知る人は知らない人の優位に立てるのである。
電車男とのまネコ
2ちゃんねらに受け入れられた電車男と、受け入れられなかったのまネコを比較してみる。 電車男には電子掲示板が登場する。 2chを知っていればこれが2chだということはわかる。 知らなければ「この掲示板は実在するのか」と思うだろう。 その時、2chを知る人は「この掲示板は2chといって、1999年に~」と説明する自分を思い浮べ、優越感に浸るのである。
のまネコはどうか。 歌に合わせてキャラクターが踊っている。 モナーを知っていればのまネコの由来もわかる。 では知らない人は「このキャラクターの由来はなんだろう」と思うだろうか。 思わないだろう。キャラクターはキャラクターだ。 猫のキャラクターはどこにでもいる。 ハローキティとか。 モナーを知っていても「これはモナーというアスキーアートがもとになっていて~」と知識を自慢することができない。
これはオタク式パロディの作法に反する。 それで一部2ちゃんねらが怒っているのだ、と考える。
まとめ
オタクは知識自慢をし、そのために知識自慢ができるようなパロディを求めている。 「のまネコ」は単体で完結していて、知識自慢のできる余地がないために 一部2ちゃんねらに叩かれた、というのが僕の考えである。
avexが2ちゃんねらに叩かれないことを優先目標にするのであれば、 キャラクターを見る人がその由来に興味を持ち、 2ちゃんねるに足を運ぶような工夫をすべきだっただろう。 少なくとも、そのようなものであると2ちゃんねらに思わせる必要があったと思う。